先日書いたエントリーが思いの外多くの方の目に止まった様で、色々な感想を目にすることが出来ました。

その中で目に付いたのが「啓蒙すべきは主催者でなく心ない参加者ではないか?」と言う意見です。

そこで先日のエントリーの続きとして、なぜ参加者でなく主催者に呼びかけたのかを説明したいと思います。


結論から言いますと、参加者に呼びかけても殆ど意味はありません。一度上がってしまったハードルは下げる事が出来ないのです。

これは参加者が傲慢であったり愚かであったりすると言う事ではありません。むしろ逆で、理知的・合理的であるからこそハードルを下げる事が出来ないのです。


1つ例を挙げましょう。

原発事故以来、電力供給量の問題から節電を呼びかける事が多くなりました。
原発の是非については述べませんが、仮に「原子力発電は危険であり、不便を被ってでも撤廃すべきだ」と言う主張に従うとしましょう。
その場合、PCやテレビを消し、エアコンを止め、洗濯機の代わりに洗濯板を使う事が正しい行いになるはずですが、それを選ぶ事が出来る人間はゼンディカーに封入されたトレジャーカードよりも稀な存在でしょう。

これは勿論「単純に生活レベルを下げる事が我慢出来ない」と言う理由もあるのですが、それと同等かそれ以上に「自分1人が正しい行いをしても、それが正しい結果に結びつかない」と言う理由が大きいのです。

現実問題として、ある個人の行動が全体に対して影響を与える事はありません。
上記の例で言えば、ある個人が電気を贅沢に使おうと爪に火をともす気持ちで節約しようと、それが原発撤廃の可否に何かしらの影響を与える事はありません。
どちらを選ぼうとも、迎える結末は変わらないのです。
(同様の例に選挙があります。こちらも個人の一票が当落選に絡む事は事実上ありません。しかもそれが数字と言う目に見える形でハッキリと提示される訳ですからより顕著な例だとも言えるでしょう。)

リスクを「複数の選択肢と、それに起因する複数の結末が存在する時に、より悪い結末を導く事になる可能性」と定義するのであれば、電気を使う量に関してリスクは存在しないのです。

無駄使いはノーリスクハイリターン、節電はノーリスクローリターンなのですから、損得勘定の出来る論理的な人間であれば誰しも前者を選択する事でしょう。

このように、個々人がそれぞれ合理的な選択を行った結果として、全体にとって不合理な結末を迎える事を合成の誤謬と言います。

ここで問題なのが、合成の誤謬という概念を理解したとしても、それを回避する事が出来ないと言う点です。
前述した通り、個人の行動が全体の結末に影響を及ぼさないのですから、結末が分かっていたとしても個人にそれを止める術はありません。
であれば個人に残されている道は「自分も合理的な選択をし、不合理な結末を迎える」「自分は不合理な選択をし、不合理な結末を迎える」のいずれかしか無いのです。

大会の話に当てはめれば、仮にAさんの大会運営方針が間違っていると気づき他の大会へ足を運んだとしても、結末を変える事は出来ません。
それどころか結末を迎えるまでの間ですらAさんの開催する素晴らしいイベントに参加出来ないと言う一方的なデメリットを抱える事になってしまうのです。
そうなれば「いずれにせよ破滅は止められない。であれば期間限定であっても今ある享楽に身を任せた方が良い」と考えるのが合理的です。

人間は論理だけでなく感情で生きる生物ですので、勿論中には使命感のようなものに駆られてあえて不合理な選択をする方もあるでしょうが、大多数は合理的な判断を下します。

故に、参加者に呼びかけても殆ど意味は無いのです。


ではどうすれば合成の誤謬を回避出来るのでしょうか?
それは非常に簡単な事で、全ての決定権を自分1人で握っている人物に判断を下してもらえば良いのです。
合成の誤謬が発生するキモは「自分の意志が結果に反映されない」事にあります。
これは圧倒的多数の中に存在する個人と言う立場故の問題であり、自分の意志が100%結果に反映される立場の人間であればそのような問題は存在しないのです。

ですので、先日のエントリーでは参加者でなく主催者の皆さんへ呼びかけを行った次第です。

主催者の皆さんは自分の一存で大会を自由にコーディネートする事が出来ます。それだけ大きな力を持っているのです。
だからこそしっかりと全体を見渡し、「どうすれば自分も周囲も幸せになる事が出来るのか」を考えて行く必要があるのだと私は思います。

全国の主催者の皆さん、これからも一緒にMTGを盛り上げていこうじゃないですか!

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